ベトナムを知り尽くした達人の濃すぎる人生を追う。「知らないことだらけの世界を自分の目で見て回ってやろう」ー秋利美記雄

ハノイの声

ベトナムの達人秋利美記雄

インタビュー企画の第三回は、通称「ベトナムの達人」の秋利さんをインタビューして来ました!

ベトナム在住歴は20年以上の超重鎮で、ベトナム語を巧みに操りベトナム人との交渉ごともまとめ上げる実力者。

ベトナムのことなら、とりあえず彼に聞けばわかると思います。

 

しかし、彼はクイズの達人の肩書きもあるんだとか!?

そんな秋利さんが、なぜベトナムにきて、20年以上もベトナムに滞在しているのか。

そして、これからをどう考えているのか。

全てを徹底的に聞いて来ました。

 

ちなみに、達人というから正直びびってインタビューをしに会いに行ってきたんですが、めちゃくちゃ気さくで明るい人でビビりました。

しかも、かなりたっぷりと話してくれました。

あまりに長すぎたために2日間にわけてインタビューしたほどです。

それでも、すごく快く引き受けていただける、優しすぎる方でした。

そして、しっかりと話していただいた分、とても内容も濃くて長くなっています。

かーなり長いですが、かーなり面白いと思います。

 

ベトナムに興味ある人はもちろん、ない人でも楽しめること間違いないです。

どうぞ、そんな秋利さんの濃すぎる半生をお楽しみください!!

自己紹介からの秋利伝説

たいき
こんにちは!!

今回はインタビューを受けていただき、本当にありがとうございます!!

あのベトナムの重鎮の秋利さんをインタビューできて、嬉しいです。

早速ですが、簡単に自己紹介していただいてもよろしいですか??

秋利

いえいえ、こちらこそありがとうございます。

名前は秋利美記雄と言います。

出身は山口県で、今年でベトナム在住23年目です。

今まではずっとホーチミン市のほうにいたんですが、最近ハノイに拠点を移しました

ちなみに、僕の秋利という名前はかなり珍しい苗字で、多分日本で僕の親戚以外いないんですよ。

ネットで調べたら、秋利は日本に10〜20人と言ってて、それはイコール僕の親戚の数ですからね。

だからこそ、秋利という名前で悪いことができないんですけどねww

 

そして、秋利という名前ではたぶん自分が一番有名。

今年のプロ野球ドラフト会議秋利という選手がかかりそうになったんですけど、彼がプロ野球選手になってしまったら負けちゃうかもしれないですけどね。。。

たいき
確かに、秋利という名前は聞かないですよね。

特にその漢字が珍しいんでしょうね。

秋利さんの名前をネットで調べたら、Wikipediaで出てくるくらいの有名人ですもんね。(ガチ

あれ、ちなみにそのプロ野球候補の秋利さんは親戚じゃないんですか?

秋利
もちろん、親戚ですよ!!!笑

彼は日本の大学を中退してアメリカ留学をして、大リーグでもドラフトで指名されそうだったんだけど、結局はかからなかったんですよ。

今年は日本のプロ野球で指名されるかなと思ってたんだけど、残念だったね。

来年こそは指名されるはずなので、ぜひご注目ください!!

プロ野球ドラフト候補の秋利さんに関する情報はこちら

ちなみに、秋利家は山口県と島根にしかありません。

僕は山口県のほうなんですが、実は島根のほうに本家があるらしい。

実は、あの楠伝説の1人が先祖の秋利なんですよ。

たいき
やばいですね。

もはや、秋利さんは名前から伝説やったんですね。笑

秋利選手には、ぜひともプロ野球で活躍して欲しいですね。

でも、そんな楠伝説から続く家系なのにどうして秋利家はあまり拡大しなかったんですかね?

秋利
たぶんね、それは男が短命の家系だからだと思いますよ。

僕の父も祖父も、若くで亡くなってしまってる。

だから、あんまり家系が広がらなかったんじゃないかな?

僕もそろそろ長くないかもしれないな、とは思ってますよ。

たいき
いやいや、まだまだ元気すぎるでしょ。

死ぬ気配が一切ないですよ。笑

日本でクイズ漬けの青年期

たいき
秋利さんといえば、ベトナム生活のイメージしかないんですが、日本でも生きていた時代もあるはず。

そんな、秋利美記雄の日本時代の話を聞かせてください!

秋利
下関生まれで高校まではずっと下関でした。

大学からは名古屋大学に入学して、名古屋へ。

子供の頃に「アメリカ横断ウルトラクイズ」というクイズ番組を見てクイズの楽しさに目覚めてしまい、小学校時代からずーっとクイズの勉強をひたすらしていました。

学校の勉強も、クイズの栄養になるのでしっかりと集中してやってましたね。

受験勉強はクイズの勉強のついでにやってた感じ。

受験勉強をしてれば、副産物でクイズに必要なことも覚えられますからね。

大学は特にこだわりはなかったんですが、浪人は許されない家庭環境だったので、確実に入れそうな名古屋大学を選びました。

たいき
クイズの勉強のために学校の勉強ってめっちゃおもろいですね。笑

そんな子供はなかなかいないでしょ。

そして、クイズを一生懸命勉強してたら、名古屋大学に確実に入れるだけの秀才になってしまうんですね。

でも確かに、クイズで強い人って有名な大学の人が多いですもんね。

秋利
そうですね。

アメリカ横断ウルトラクイズが子供の頃から好きで、それに出るのがずっと憧れだったんですよ。

でも、あれは大学生以上じゃないと参加できないんですよ。

だから、大学生になってウルトラクイズの出場権をゲットしたのが、何よりも一番嬉しかったことでしたね。

1984年の第8回大会が僕の初出場の大会だったんですよ。

後楽園球場で予選会が開かれて、屋根がない炎天下のもと、1万人以上が集まって、〇×クイズだけで100人にまで絞られるんです。

この暑くてたまらない後楽園球場のグランドでの予選会で、正解して水を飲んだ時のあのめちゃくちゃ冷たい水が最高に美味しかったです。

あの味は今でも忘れられないし、経験した人にしかわからない味なんだろうなって思います。

たいき
1万人から100人に絞るってものすごい倍率ですよね。

その高すぎる倍率を勝ち残って、第8回大会にいきなり初出場してしまったわけですね。

つまり、秋利さんのクイズ伝説が始まったと。。。

秋利
確かに、初出場はできたんですが、実はこの大会の結果は芳しくありませんでした。

100人が空港に集められるんですが、そこで3回じゃんけんに勝ったら初めて飛行機に乗れるんですよ。

だから、その時点で空港まで行ったのに落とされる人も少なくないです。

さらに、飛行機の中でもクイズが出題がされます。

これで落ちてしまっても、日本に送り返されてしまいます。

そんな感じのぶっ飛んだ番組だったんですよね。

今の時代じゃ、あれはもう再現できないと言われてます。笑

たいき
それを聞いただけでもむちゃくちゃな大会ですよね。笑

秋利さんは、空港と飛行機の選定では落とされなかったんですか?

秋利
そうですね、そこは残れたんですが、次のグアムの泥んこクイズで落ちてしまったんですよ。

クイズの答えが、〇か×を選んで、選んだ方の的を走ってぶち破るやつです。

正解ならクッションがあるけど、不正解なら泥に落ちるんですよ。

それでおもっきり泥に突っ込んじゃいましたね。

そこで、僕の初出場の第8回大会は終わってしまいました。

でも、この時に早稲田大学クイズ研究会の幹事長と副幹事長に出会ったんですよ。

彼らにすすめられて、当時クイズ研究会がなかった名古屋大学にも、クイズ研究会を設立することになりました。

たいき
泥んこクイズ、あれ一回はやってみたいですよね。笑

つまり、秋利さんは名古屋大学クイズ研究会のメンバーにとっては伝説的な創業者というわけですね。

秋利
まあ、そうなるのかな。

一応、名古屋大学のクイズ研究会の歴代でも、ウルトラクイズで一番最後まで残ったのは僕だったので。

それが、第13回のウルトラクイズです。

この回で僕は準決勝まで進んだんですが、この準決勝が壮絶な戦いだったんですよ。

ボルティモアの準決勝として、今でも語り継がれる伝説です。

この回があって、僕はクイズ界では一気に有名になりました。

 

この13回のウルトラクイズが終わった後もクイズ番組にはよく出ていました。

当時いろいろとあった日本一決定戦番組で予選なしのシード選手にもよく選ばれていたくらいです。

そして、その当時の知り合いたちは、今のクイズ番組を作っているクイズ作家の人たちです。

だから、彼らはだいたい全員僕のことを知ってますよ。

第13回ウルトラクイズ、ロサンゼルスにて撮影した記念写真

たいき
まさに、秋利さんはクイズ界でもレジェンドやったんですね。

クイズなしでは秋利さんは語れないわけですね。

でも、それだけのクイズ大好きだった秋利さんがベトナムに来て、クイズなしの生活に耐えられたんですか?

秋利
実は、8人用のクイズの早押し機をベトナムに持って来てるから、クイズ大会をベトナムでも開催できるんですよ。

やっぱり早押し機をピンポンって押したら楽しいでしょ?

しかも、サイゴンでは5年ほど前にサイゴンウルトラクイズというクイズ大会を開催したこともあります。

80人くらい集めて、〇×クイズからはじめて絞っていきました。

あれは楽しかった。

ハノイにも移住したことだし、ハノイウルトラクイズも開催したいですね。

近いうちに開催するんじゃないかな?

大いに盛り上がったサイゴンウルトラクイズの様子

たいき
やっぱり、クイズなしの生活は耐えられなかったんですね。笑

ハノイウルトラクイズは楽しそうですね。。。

開催するときは、ぜひとも参加したいです!!

日本から海外へ活躍の場が変わり始める

たいき
そんなクイズ漬けの秋利さんが、なぜベトナムへ行く道を選んだんですか?

クイズ以降の秋利さんに、何があったのか知りたいです!!

秋利
実は大学を卒業した後は、まともに就職せずにフリーターをやってました。

就職したくなかったんですよね。

当時は「3S(寿司、ステーキ、ソープ)」なる就職接待などの風潮があったんです。

でも、何ができるかもわからない青二才にそんなことするのっておかしくないですか?

そんな風潮が嫌だったから、それに抵抗したのかもしれないですね。

そして、就職せずにフランス語の翻訳家を目指すために、フランス語の勉強をはじめました。

その後は、昼間は翻訳会社の編集の仕事、夜は学習塾の先生という二足のわらじで、四六時中働く生活でした。

 

今思えば、この当時に僕がベトナムに興味をもつきっかけをあたえてくれた3人と出会いました。

1人は長島良三先生というフランス語の翻訳家の先生で、「愛人(ラマン)」などの映画がヒットした当時のフランスでのベトナムブームの際に、カトリーヌ・ドヌーブが主演した映画「インドシナ」の原作小説を翻訳して日本に紹介した人でした。

2人目は、翻訳会社の上司で元祖バックパッカーみたいな人。彼が90年ごろ、自由旅行が解禁になる前のベトナムに旅行してベトナムのことを話してくれたんです。

3人目は、働いていた塾の社長で、ベトナム戦争時代に商船関係の仕事でサイゴンに駐在していた人でした。マジェスティックホテルでの朝食の炒飯の話が印象的でした。

彼らの話がとてもおもしろかったから、ベトナムに自然と興味を持っていったのだと思います。

たいき
かなり面白い人たちが、偶然周りに揃っていたんですね。

それも、秋利さんをベトナムに導く運命だったのかもしれないですね。

しかも、当時のベトナムの話というと、相当新鮮で面白かったんじゃないですか?

僕も、その人たちの話を聞いてみたいくらいですよ。

秋利
そうですね。その頃の1980年後半はベトナムは東側諸国だから、全くの未知の世界でした。

1990年頃のソ連解体からやっとベトナムが開きはじめて、外国人がベトナムにも入りやすくなったんです。

本当にちょうどそんな時期だったんで、完全な未知の世界のベトナムはすごく面白かったんですよ。

93年の4月には自由旅行が解禁されました。

それまでは、ベトナムツアリズムの専属ガイドというお目付け役をつけないと旅行ができなかったのです。

今じゃ、想像もできないような世界ですよね。

たいき
なんか、歴史とかで勉強して知っている世界だけど、その時代に生きていなかったので、どういう感覚なのかは本当に想像つかないですね。

それで、ベトナムに興味を持ってベトナムに働きにいったわけですか?

秋利

いや、実はその時点からすぐにベトナムで住みはじめたわけじゃなかったんです。

まず、当時働いていた翻訳会社が、ある大手企業に買収されてしまって仕事がなくなってしまいました。

それで、海外で働きたいという気持ちもあって仕事を探していたら、シンガポールで仕事を見つけることができて、シンガポールで働きはじめたんです。

それは、シンガポールにある日本人向けの学習塾の先生の仕事でした。

これが1993年の9月のこと。

こっからはずっと海外生活の人生になりますね。

そして、シンガポールは狭い国だから、みんな長期休みの旅行といえば海外へ行きました。

それで、僕はかねてから興味があったベトナムへ初の旅行をすることにしたのです。

これが1993年の年末のことです。

たいき
なんと海外のファーストキャリアはあのシンガポールだったんですね!

当時のシンガポールも、今とはまた違った面白さがありそうですね。

そして、ついに秋利さんがベトナムへ上陸するわけですね。

初のベトナムはどうだったんでしょうか?

秋利

当時のベトナムは本当に壮絶な世界でした。

僕はマジェスティックホテルという、ベトナム戦争時に有名な日本人ジャーナリストらが泊まっていたことで有名なホテルに泊まりました。

とりあえず、初のベトナムで町歩きをしようと思って、ホテルの周りをぶらぶら歩いていたら、物乞いがぶあーーーってついてくるんです。

さらに、空は雨が降りそうでどよんと沈んで真っ暗でした。

そんな異様な雰囲気がだんだんと怖くなってきて、物乞いたちに追いかけられるようにしてホテルに戻りました。

そして、ホテルに戻ったら思わず後悔しましたね。

「せっかくの休みになんでこんなところへきたのか」と。笑

しばらくしたら、真っ暗な空から雨がザーっと降りはじめました。

まるで、その時の僕の気持ちを表しているようでした。

実はサイゴンで年末の時期に雨が降ることはすごく珍しいです。

だから今改めて考えてみても、その日は奇妙だったと思いますよ。

そこで偶然、他の日本人観光客と出会うことができて、なんとか落ち着きを取り戻すことができたんですけどね。

今はなきサイゴンフローティングホテル

たいき
なんか、話を聞いているだけでも背筋がぞっとしてきますね。

今のベトナムからはそんな光景が想像できないですもん。

初めての旅行はそんな感じで、暗いまま終わってしまったんですか?

秋利

いや、それがそのままでは終わらなかったんですね。

一つはぼったくられたことは覚えてます。

言葉も通貨も全然わからなかったから、仕方ないですよね。

 

だけど、最悪の出来事は、帰りの飛行機に乗り遅れてしまったことです。

これは旅行会社の手配ミスだったんですけどね。

ただ、ともかくその時代に今のようなスマホなんてなかったから、めっちゃ困りましたよ。

偶然、旅行中に日本語を話せるベトナム人のガイドと友達になってたので、公衆電話もろくにない中、周囲の人に頼んでなんとか彼に電話をしたらすぐに駆けつけて、助けてくれたんですよ!

ホテルをあてがってくれて、さらに代わりの翌日のチケットの手配までもしてくれたんです。

そんな感じの初めての旅行なんですが、あまりにいろんなことが起こりすぎて、逆に面白いなって思ったんですよ。

それでまたベトナムへ行きたいと思ったわけです。

たいき
いやあ、すごいですね。

めっちゃ面白いです。

確かに、そんな旅行はスリルがあって怖いですけど、楽しいって思ってしまいますよね。

なんか、純粋にベトナムに惚れてしまった感じがあって、まっすぐでめっちゃ良いです。

それで、その後も実際にベトナムへ旅行するんですか?

秋利
そうですね。

次の5月にまた旅行に行って、その時にはしばらくホーチミン市で仲良くする2人の日本人と出会い、友達になりました。

今でも彼ら2人はホーチミン市に住んでると思いますよ。

まあ、なんせ当時のベトナムにいる日本人は変な人しかいなくて、面白かった。

ちなみに、その2人のうち1人はここで起業して日系では最も古い部類に入る会社を経営している人です。

もう一人はベトナムで株式市場が開かれるというので、N証券のロンドン駐在員という立場を捨ててサイゴンに移住した人です。

皆ぶっ飛んでいて面白い人ばかりでした。

 

さらに、次は8月にシンガポールの会社の同僚も連れて旅行で訪れました。

もうこのタイミングで、ベトナムへの移住を決めましたね。

完全にベトナムに惚れ込んでしまったわけです。

そして1995年の2月に退職して、2ヶ月間マレー半島をバンコクまで北上してベトナムを目指して、バックパッカーの旅をしました。

メコンデルタを旅行した時の一枚。

たいき
おお〜、ついにベトナムへ移住するわけですね。

もう完全にベトナムの虜になってたんですね。

旅行から惚れ込んでベトナムに移住する流れってめっちゃいいですね。

ベトナムでベトナム語をマスターする日々

たいき
やっと、ベトナムに移住しましたね。。。笑

ここまでめっちゃ長かったですねえ。

それだけ、秋利さんの人生が濃すぎたわけですよね。

こっからがいよいよ本番ですかね!?

ベトナムに移住した当初は何をしてたんですか?

秋利
いやあ、長かったですね。笑

僕が移住した1995年の当時は、ベトナムにいる日本人は1000人くらいでした。

その前年は300人だったので、ちょうど一気に人が増えた時期やったんですね。

これは1995年にアメリカとベトナムの国交が回復したという出来事が大きく影響していると思いますね。

ホーチミン市と関西空港の直行便が繋がったのもこのタイミングでしたしね。

ちなみに、韓国は1年早く、1994年から一気に人が入ってました。

1995年4月24日。記念すべき、20年以上のベトナム滞在の一番最初のVISA。

たいき
こういうところでも、日本と韓国の違いが現れてますよね。

日本は確実に出来事が起こってから行動するけど、韓国は出来事を見越して先に動きます。

それが、後から大きな差になってくるんですよね。

秋利
そういうことですね。

僕は、実はベトナムに来てからの2年くらいは仕事をしてませんでした。

学校でベトナム語を勉強してました。

ベトナム語を勉強した理由は、絶対に仕事になると思ったからです。

旅行で来ていた時に、ベトナム語がめっちゃ難しいと思ったんですよ。

こんな難しい言語を使いこなせる日本人は、今でもなかなかいないですからね。

たいき
そのあたりの先見の明はさすがですね。

今からでもベトナム語を勉強しても、仕事が十分あるくらい、日本人のベトナム語話者は少ないですもんね。

ということは、はじめの2年はみっちりとベトナム語を勉強しまくった感じですか?

秋利
いや、実はそうでもなかったんですよね。

午前の2時間は学校で勉強して、そのあとは午後からずっとビリヤードしてました。

僕らの世代は学生時代に「ハスラー2」いう映画が流行って、その影響でビリヤードをできる人がとても多かったんですよ。

その中でもほとんど負けないくらいには強くなりましたね。

 

あとは、バーに行ってバーのベトナム人とベトナム語で話したりして、練習はしましたね。

ちなみにホーチミン市のバーの人のほうが、気さくに話しかけてくれるんですよ。

ハノイのバーの人はあまり話の相手をしてくれないんですよ。

そういうところで、それぞれの地域特有の性格は出てるのかなって思いますね。

今も基本的に当時とは変わりないですね。。。

 

ちなみに、ハノイは路地の中でも店とかいっぱいあるじゃないですか?

あれは、知り合い相手だけでも商売が成立するからなんです。

だからこそ、よそ者に厳しいんですよ。

逆にサイゴンは、裏路地にあまり店を出さないで、基本は表に出しています。

イチゲン客も相手にする商売気質があるんですよね。

ベトナムに来たばかりの頃に乗っていた愛車ランブレッタ

たいき
ハノイとホーチミン市でも、文化や商売の違いがあったんですね!

それは知らなかったです。

ハノイに住んでたら、ベトナム人は人見知りが多いなあと思ってたんですが、それもハノイの土地の特徴でもあったのかもしれないですね。

ちなみに、ベトナム語の学校での勉強はどんな感じだったんですか?

秋利
僕はホーチミン市の師範大学の授業を受けていたんだけど、その学校は個人授業でマンツーマンで教えてくれました。

ただ、語学の教授方法が全然できていなかったんです。

なんか、自分が英語や日本語の練習をしたいような先生も多かったです。

そんな感じの教え方を知らない先生ばっかりだったので、勉強にならないと思って、事務局に言って先生を何度も変えてもらいました。

5回くらい変えてもらった結果、最終的にコースの教務主任のハイ先生に巡り合ったんですが、その先生がすごくよかった。

英語や日本語は全然できなかったんですが、教育方法はきっちりと知っていたんですよ。

だから、ベトナム語をベトナム語とジェスチャーや絵などを用いて教えてもらうことになるんですが、教え方はすごく上手だったんですよ。

結局この先生に2年間教えてもらいました。

今でもちゃんと通じるベトナム語が話せるのも、このハイ先生のおかげだったと思いますね。

たいき
やっぱり、教え方や先生ってかなり重要なんですね。

そこは妥協しちゃダメなところってことですね。

ベトナム語をベトナム語で勉強するという過酷な環境だったからこそ、ネイティブレベルのベトナム語をいち早くマスターできたのかもしれないですね。

ベトナム語通訳者として働き始める

たいき
そんな感じで、ビリヤードとベトナム語を極めた秋利さんですが、そろそろベトナムでの仕事も始まったんでしょうか?
秋利
そうですね、ベトナムに来てから2〜3年目くらいから仕事を始めました。

はじめは、1997年にタントアンというEPZの工業団地にある、電子部品を取り扱う日系工場で通訳として働き始めました。

EPZというのは輸出加工区といって、いわゆる治外法権でインフラがしっかり整えられている、海外企業が工場を作るための場所です。

そこでは、材料を輸入して、一時的に加工だけして外に出すんです。

 

例えば、コンビニ弁当の昆布巻きの工場なんかもありましたよ。

これは、日本でとった昆布をベトナムに送って、ベトナムで加工して、日本に送り返すだけの作業をする工場です。

昆布を巻く作業って人しかできないから、人件費がもろにかかるから、ベトナムでやってしまった方が安いんですよね。

結局、ベトナムではそういう産業が中心だったわけです。

その後も、人しかできない単純作業の工程を行うための工場が多く作られていくのです。

たいき

結局当時でもベトナムは人件費が安いから、それを利用するわけですね。

まあ、それはビジネスだから当然のことですよね。

ビジネスは、利用できるものは最大限利用するものですもんね。

ちなみに僕が生まれたのがこの1997年ですよ。

時代を感じますね。。笑

そして、その電子部品の工場でしばらく働き続けたんですか?

秋利

いや、実は3〜4ヶ月くらいでこの会社はやめてしまうんですね。

日本の本社の業績が芳しくないからとかで勤め始めてすぐに給料を下げられることになったからです。

1997年の12月に仕事をやめたんですが、その直後の1月にベトナム人の奥さんとも結婚しました。

結婚したにも関わらず、仕事をやめてしまっていたので路頭に迷ってしまうわけです。

それで、ちょうど時間もできたことだしと1998年の3月頃には一度日本に一時帰国しました

 

でも、ちょうどその帰った時くらいに三井物産と東芝からオファーをもらいました。

それで、1998年の11月から三井物産の繊維部門で働き始めたのです。

繊維部門では、以前も何度か臨時で通訳の仕事をしていたので、その繋がりもあったんでしょうね。

前任者がちょうどやめることになって、そのかわりに呼ばれた感じですね。

そこで9年間働くことになります。

はじめは契約社員だったんですが、2年目からは正社員として働き始めました。

ベトナムでの新たな転機で新しい道へ

たいき
三井物産で、9年間働いたということでしたが、そこでは通訳者としてだけ働いていたんですか?

具体的にどんな仕事をしていたんでしょうか?

秋利
実は、はじめは通訳者だったけど、途中からは管理者としての仕事も始まりました。

最初はやっぱり大変でしたね。

日本人の中でも、周りの人とは自分だけ全然ステータスが違ったし、間に挟まれながらベトナム人の同僚と仲良くするのも難しかった。

仕事のやり方も全然わからなかったし。

あと、繊維部門だったんですが、縫製の用語ってすごく特殊なんで、そもそも日本語でもベトナム語でも専門家でないとわからない言葉だらけなんですよ。

だから、ベトナム人の奥さんにわからないベトナム語を聞いても、もちろんわからないという状況。

これがめちゃくちゃきつかったですよ。

縫製のことをよく知っている日本人やベトナム人に訊いて回って言葉を採集しました。

その経験から、縫製に関する日越辞書を作ったりはできたんですけどね。

そんな感じで、はじめは辛い経験もたくさんしましたね。

たいき
日本語でもわからない言葉だったら、通訳のしようがないですもんね。笑

でも、ベトナムで縫製の仕事って何をするんですか?

やはり、先ほど言ったような加工だけをするんですかね?

秋利
そうですね。
当初はスキーウェアをずっと作ってましたね。

スキーウェアって実は300以上のパーツがあって、それを組み立てないとダメなんですよ。

だから、かなり人の力が必要になります。

つまり、組み立てが大変でたくさんの人の力が必要になるほど、ベトナムが適していたわけです。

ベトナムは材料のない国だから、材料を全て送り込んで、現地で組み立てをして送り返す感じ。

しかし、その後スキーウェアだけじゃなくて、スーツも生産することになるのです。

そこで、僕に転機が訪れたのです!

たいき
スキーウェアにそんなたくさんのパーツがあったなんて。。。

ずばり、その転機とはなんだったんですか!?

秋利
社内の諸事情から、自分にその新しいスーツ生産プロジェクトを担当するチャンスが回って来ました。

本来、駐在員がするような、商社マンの仕事をバリバリさせてもらえたのです。

ちょうど、スキーウェアを生産していた大手工場に、使っていないスーツのプレス機械があって、初期費用をかなり抑えて生産を始められるという好条件があったんですよ。

そのベトナムの大会社とうまく連携できて、結果的に成功するわけです。

その成功をきっかけに、ベトナムの繊維業界でも、スーツブームが起こって、どこの工場もスーツを生産したがるような状況になったんです。

今でも、日本のスーツの生産の多くをベトナムで生産していますしね。

スーツプロジェクトで生産工場の副社長らとフィリピン出張

たいき
まさに、人生の転機ですよね。

そこから、一気に仕事の幅も広がり、スキルも大幅に増えたわけですもんね。

しかも、日本とベトナムの繊維業界に大きなインパクトを与える大仕事だったわけですね。

その後は、ずっとそのプロジェクトを担当していたんですか?

秋利
とりあえず、そのプロジェクトは成功して落ち着くまで担当してました。

ただ、その会社をやめたら独立するわけやけど、その前から飲食店を持ったり自分の会社を作ったりしてました。

個人の会社は、たまたまベトナム人の現場管理チームのマネージャーが転職して、そのチームメンバーを管理しないといけなくなった成り行きで会社の公認と援助のもと作った感じなんです。

同じように、知り合いの日本食レストラン経営者が日本に帰るからといって、その店を買い取ってくれと頼まれ、引き受けて経営をしてみたりもしました。

そんな感じで、流れで経営をするようになっていきました。

たいき
なんか、どんどん流れが秋利さんに向かって流れているって感じですよね。

それで、その設立した会社がそのまま、今にいたるって感じですか?

秋利
ちょっとそのままではないんですよね。

2007年に商社の仕組みなどが大きく変わったタイミングに合わせて、独立することになりました。

といっても、はじめは今までと同じように三井物産と一緒に仕事をしていた感じです。

その後、2009年に日本法人を作って、後からベトナム法人のコンサルティング会社を設立しました。

そのタイミングで今までの会社を完全にやめてしまいました。

その会社が今で9年目ということです。

これも独立当初は、三井物産の下請けだけで、生産管理の仕事がメインでした。

そのうち、他の会社の仕事も徐々に増えていったんです。

そうして、今の会社は新規事業立ち上げの手伝いをしたり、その前段階の情報を提供したりすることがメインの会社になってますね。

ホーチミン市投資貿易促進セミナー主催「日本市場向け輸出促進セミナー」の様子

たいき
おお、ついに今の会社になったわけですね。

世間知らずの僕としては、そんな会社の作り方、独立の仕方があるのかとびっくりしてます。

会社の業務も、商社の下請けから、徐々に自社独自のスキルや情報を売る仕組みにシフトしていくのはうまいなと思いましたね。

時代の流れに合わせてるって感じ。

それでは、今はコンサルティング系の仕事がメインってことですか?

秋利
そうですね。

今は中小企業のベトナム進出がメインですね。

ベトナムに限れば、僕個人の縫製工場に関する知識や情報量は、繊維に強いベトナムの伊藤忠に匹敵するという自信があります。

他の商社などの組織には絶対に負けない。

なんせ、ベトナム中の工場を回って来ましたからね。

 

また、今はインターネットのインバウンドマーケティングに力を入れています。

「ベトナム」の「アパレル」とか「縫製工場」とかをテーマにしたニュースサイトやブログを7年前から運営してます。

「ベトナム アパレル」や「ベトナム 縫製工場」などのキーワードで検索したら、僕の会社がトップで出てくるくらい有名になってます。

そのおかげで、ニュースサイトやブログから、どんどんお客さんが入ってくるので、かなり楽になりましたね。

契約に繋がる可能性の高いお客さんしか問い合わせて来ないので無駄が少なくて話が早いんですよ。

大事な仕事の一つ、生地市場まわり

たいき
その時代の適応力がすごいですよね。

今はどの企業もWebのインバウンドマーケティングに力を入れたいし、それが成功すればめっちゃ楽なのはわかってますもんね。

僕の会社もそれをしたいけど、なかなかうまくいかずにいる現状ですから。

それを早い時期から目をつけて、成功させてるのはさすがとしかいいようがないです。

でも、それでずっとホーチミン市で事業をしていたわけですが、なぜハノイに拠点を移したんですか?

秋利
実は、独立してからは、南部より北部に力を入れ始めたんですよ。

縫製の仕事は南部は行き詰まりになると思ってたから。

私自身は特に北部の生産に力を入れてたんですが、お客さんはあまり北部に来ないから仕事を本格的に北部に移せなかったんですよ。

多くの日本人にとっては、<ベトナム=ホーチミン市>なんですよ。

それが今やっとハノイにもお客さんが集まり始めて、拠点を移せるまでになったという感じですね。

北部に拠点を持つところはは非常に少なかったので、うちだけが唯一北部の情報を提供できたんです。

大阪での「ベトナム繊維事情セミナー」での講演の様子

秋利美記雄のこれから

たいき
なるほど、つまりハノイにくることは以前からずっと計画されてたことやったんですね。

そんな秋利さんですが、将来は何をしたいと思ってるんですか?

秋利
実は30代の頃は、ベトナムで生き残ることが目標でした。

仲間内でも、サイゴンサバイバルゲームといって、日本に帰らずにベトナムで仕事をうまくやっていくことに必死だったんです。

そして、40代には社長になりたいと思って必死に頑張りました。

50代になった今では、実は物書きをやりたいと思ってます。

作家業をしたいんですよ。

小説でもなんでもいいけど、ペンで書く仕事をしたいです。

正直、繊維業界は将来が見えないですからね。

 

実は僕の名前、「美記雄」ですが、もともとは「美”紀”雄」だったんです。

そもそも、僕の名前は「美」が母の名前、「雄」が父の名前からとっていて、生まれた日が紀元節だったから、「美紀雄」だったんですよ。

でも、二人目の娘の名前を考えるタイミングで自分の名前もついでに姓名判断をしてみたら、これから先の人生がめちゃくちゃ悪くなる名前だったんで、変えることにしたんですよ。

これからの将来が危うい糸偏の仕事からを言偏の仕事に変えてやろうと思って、「紀」を「記」に替えて「美記雄」にしたんです。

新しい名前はこれからの物書きの仕事をしていく未来にぴったりだなと思ってます。

ちなみに、自分のもともとの「”紀」”の文字は娘にあげて、しっかりと引き継ぎましたよ。

長女の愛美さんとの一枚。めっちゃ美人。

たいき
へええ、作家業!!めっちゃいいですね!

ブログも色々書いている秋利さんにとって、ぴったりですよね。

名前が変わった話は面白いですね。

人生の流れにぴったりと合わせて変わっているので、本当に運命なんかなと思っちゃいますね。

ちなみに、秋利さんのベトナムの好きなところはどこですか?

秋利
まず、いろいろと多彩なのが面白いね。

そして、なによりも上向きの国だから明るい!!

子供や若者もたくさんいる。

ショッピングモールとかでは子供が多くてまじでうるせえけど、みんながそれを許してる。

それがまさに国の活力だよね。

日本は静かでいいのかもしれないけど、それは死んどるよ。

やっぱり若者がたくさんいないと、国として力が強くならない。

それに、日本は子供を育てられない国になってると感じる。

ベトナムでは子供を産んだら、周りのみんなでケアしてあげるんですよ。

家族や親戚だけでなく、ご近所さんや見知らぬ人まで、みんなが社会の宝として子供を扱うんですよ。

日本やったら邪魔者のように扱われるでしょ?

だから、子供はベトナムで産んで育てるのがいいよ。

そういうところが、ベトナムのすごく好きなところだなって思います。

たいき
ほんまに、ベトナムは明るくて上向きの国ですよね。

特にみんなが子供を大事にしてるっていうのは、強く感じますね。

僕がベトナム人の学生と遊んでても、みんな赤ちゃんとか見たら、知らん子でもめっちゃ絡んでいくんですよ。

知らん人の赤ちゃんを勝手にだっこしてあやしたりしてるし。

それを、親も許してるからね。

店で店員さんが、お客さんの赤ちゃんと遊んでたこともありますよ。

そんな感じで、社会全体で子どもを育てるっていう雰囲気は間違いなく、ありますよね。

 

それでは、ついに最後になりますが、「日本人の若者に向けて何かメッセージ」をください!!

秋利

やっぱりね、世界は広いからいろんな場所をいっぱい見た方がいいと思う。

世の中にはまだまだ、知らないことがいっぱいあるんよ。

自分は人生で最初の趣味がクイズだったから、知らないことを恥ずかしいと思わないんですよ。

だって、クイズをしてたら、知らないことがいっぱいあるのなんて当然だとわかってるから。

そんな新しいものを、自分の目で見て、自分で経験して欲しいと思う。

 

僕が中学校の頃、小田実の「何でも見てやろう」という本に出会いました。小田実は「ベ平連(ベトナムに平和を市民連合)」というベトナム反戦運動の指揮をとった人物で、若いころにフルブライト奨学金制度でアメリカに留学していた人です。

彼はバックパッカーのはしりのような人物で、その彼がアメリカ留学を終えて世界中を貧乏旅行して回った体験を書いた本が「何でも見てやろう」という本だったんです。

クイズの勉強をしていて、たまたまその本に出会ったんですが、その本を読んでから小田実という作家を知り、ベトナムのことを知るようになったんです。

自分にとっては当時なにもわからなかったベトナム戦争。かつては地図上で二色に分かれていた国がある時から一色になったというだけの認識だった国に初めて興味をもったきっかけでもあり、世界を見て回りたいと思うきっかけでもあったと思う。

 

そうして、世界を実際に見て回ったら、本当に知らないことだらけだったんですよ。

だから、自分で見て回った方がいいんじゃないかと思う。

 

僕は、いざ日本を離れてみると、日本のほうが必ずしもいいとは思えなくなった。

といっても、まだまだ行ってない国はいっぱいあるので、ベトナムよりいい場所もあるかもしれない。

だからこそ、いろんな場所に実際に行って見ないとわからないことはたくさんあると自信を持って言えます。

 

自分の足で行って、自分での目で見ないと!!

たいき
ありがとうございます!!

めっちゃいいですね。

ほんまにその通りやと思います。

百聞は一見に如かず」ということわざもあるように、自分で行って見てみないとやっぱり何もわからないんですよ。

だから、若い時にこそいろんな知らない場所へいって、自分の知らないことを知ることが素晴らしい経験になって、世界を広げるきっかけになっていくと思います。

僕自身もベトナムで満足せずに、もっといろんな知らない国に飛び出していこうと思わされました。

 

長いインタビューに丁寧にたくさんお話しいただき、本当にありがとうございました!!


以上、秋利さんの熱い熱い濃すぎる半生でした。

正直、この中には書ききれていないこともまだまだあります。

秋利さんを通して、自分の知らなかったベトナムを知ることができて本当に楽しかったです。

ちなみにそんな秋利さんのブログはこちらです。

ぜひ、見てみてくださいね。

次回のインタビューは、新卒で世界に飛び出し、今はハノイの観光の中心地ホアンキエムでベトナム料理屋をマネジメントしている熱い若者の話をたっぷりお届けします。

お楽しみに!!

それでは、今日はこの辺で。

さよなら〜